「なんで、永琉(えいる)が?」
花嫁の控室に入ってきて足を止め、永琉を指さすのは高松 一真(かずま)。
永琉の四歳上の幼馴染で、永琉の生まれた老舗和菓子や『白梅庵』と長く付き合いのある老舗百貨店『松花堂』の跡取り息子。
まだスーツ姿だが今日の花婿である。
予定なら一真は3日前には出張先のアメリカから戻っているはずだった。しかし帰りのフライトがハリケーンで飛ばず、「帰国がギリギリになる」と高松家に連絡があった。
一真の母親・十和(とわ)が「ちょっと待ちなさい」と言っている最中に電話が切れ、そのあと十和が何度電話しても繋がらず、ずっと音信が途絶えていた。
◇
「俺の嫁になるのは愛琉(あいる)のはず……」
確かにこの白無垢を着て一真の花嫁になるのは、彼の婚約者の梅宮愛琉のはずだったが、理由があって愛琉は一真の花嫁になれなくなった。
永琉は愛琉の代わり。
梅宮家には娘が一真の花嫁にならなければいけない事情があった。だから愛琉の代わりに双子の姉である永琉が花嫁になることになった。
愛琉が花嫁になれないと分かったのが3日前のこと。
式直前でほうぼうに迷惑をかけることもあり、とても「私事で」などで誤魔化せない。どうせ隠しておけることではないと永琉は開き直り、包み隠さず事情を話して頭を下げて理解してもらい、永琉は愛琉の代わりに白無垢を着るところまで到達した。
だから――。
「どういうことだ?」
一真のこの言葉は永琉をこの3日間の振り出しに戻した。ようやく終わったのに。
「小母様と、話さなかったのですか?」
いまこの会場に「どうして」を知らないのは5日前から音信不通の一真を除いて誰もいない。他の人に事情を聞いてほしいと思った永琉は悪くない。
「母さんは市長と話をしていたから先に愛琉に謝ろうと思ってこっちに来たんだ。それで……愛琉はどこだ?」
きょろきょろと一真は控室の中を見渡したが、この部屋には永琉しかない。両親は全てを永琉に丸投げしたし、スタッフは総出でこの花嫁変更に対応してくれている。
この混乱を招いた愛琉は――。
「愛琉なら家にいます」
「家? どうした? 体調が悪いのか?」
「この状況でよく……」
仮に愛琉が救急搬送される緊急事態だったとしても永琉が白無垢を着ているわけがない。しっかり考えていない。理解しようとしない。『体調が悪い』で簡単に片付けようとする一真に永琉は苛立った。
「愛琉は体が弱いから……「いつの話をしているんですか?」……永琉?」
ここ3日間ずっと引っ張られ続けていた永琉の堪忍袋の緒が切れた。永琉自身も驚くくらい冷めた低い声が出た。そのくらい、我慢の限界だった。
「いつまで愛琉は体が弱いなの……」
確かに愛琉は体が弱かった。幼稚園もよく休んでいたことを永琉は覚えている。でも小学校に入ってから寝込むのが減った。
いまの愛琉は体が弱くなんかないのに愛琉は「体が弱いから」を使ってやることから逃げ、周りは「それなら仕方がない」と愛琉を甘やかす。
愛琉が果たすべき責任や義務は?
責任や義務はなくならないから、愛琉がやらないなら誰かが代わりにやらなければならない。愛琉にはちょうどいい『代わり』がいた。愛琉に見た目はそっくりで、昔から健康な双子の姉の永琉だ。
「なんで、泣いて……」
永琉は目の奥が痛かった。視界も滲んでいるから泣きそうなのは分かる。でも泣くわけにいかない。ここで泣いたら化粧が崩れる。
(もうこれ以上は迷惑をかけるわけには……って、こんなときも『お姉ちゃんなんだから』の呪い発動しちゃうのね)
「……永琉?」
心配する一真の声に永琉の中の何かが壊れた。
「もう、嫌……」
『嫌』と口にして、永琉は言葉が止まらなくなった。
「なんで全部私がやらなければならないの? 私は何もしていないのに……あなたのお嫁さんになりたいなんてもう思っていない。それなのに、どうして……」
お姉ちゃんなんだからと言われて、愛琉ができないことは永琉がやっていた。それがいつの間にか、『愛琉ができないこと』は『愛琉がやりたくないこと』に変わっていた。“代わりに”あれやっておいて。“代わりに”これやっておいて。『愛琉の代わり』はどんどん増えて、永琉の時間も体力も奪われる。
「体が弱い……たったそれだけのことで愛琉は全てを奪っていくの」
愛琉の代わりにやっても、永琉には何も残らない。永琉の全てが愛琉のものになっていく。時間も、努力の成果も、両親の関心も、そして……。
(旦那様になるはずだった|初恋の男の子《あなた》も)
「嫁は愛琉なんて、そんなの百も承知よ…… 『永琉ではなく愛琉と結婚したい』と、私の目の前であなたは私の家族にそう言った……あれを、私が忘れたとでも思ったの?」
一真が梅宮の娘から嫁をもらうことは、これは一真の祖母と永琉たちの祖母の友愛からはじまった話。
先々代が新たな事業に次々と手を出して白梅庵は赤字が続き、先代当主・梅宮 颯流(そうりゅう)は逃げるようにこの世を去った父親から家と事業を継いだ。颯流は旧華族の六条家からきた妻の千鶴子と協力しあい事業を回復していった。
千鶴子の親友だった高松和代(かずよ)は、親友のためにと支援したいと梅宮家に申し出た。それが高松から梅宮への援助のはじまり。いまの梅宮に担保できるものはないという千鶴子に対し、和代は「高松家のお嫁さん」を担保に求めた。
借金の形にというわけではない。お互いの孫が結婚したら素敵よね、という程度の話。だから『孫』だった。当時の借入金は20年もかからず返済できる額だったから、まだ影も形もない孫たちが成人するまでには完済されると誰もが見込んでいた。
しかし千鶴子と和代の計画は、双子の父親が学生時代に友人とはじめた事業で失敗し、その事業に白梅庵を勝手に担保していたことが発覚したことをキッカケに崩れ出した。
借金の返済が遅れて、髙松一族から一真は双子のどちらと婚約するのかという話が出ることとなり、先代当主の娘で高松家の血を継ぐ十和は永琉を選んだが、一真本人は愛琉を望んだ。永琉が一真の許嫁から婚約者になる直前、一真は梅宮に愛琉との結婚を認めてほしいと直談判した。十和はそれに憤ったが当主で一真の父親の高松伸二は息子の婚約者を愛琉に決めた。愛琉は一真だけでなく伸二にも可愛がられていた。
これは永琉と愛琉が17歳のときのできごと。
永琉はまだ25歳。あれからまだ8年。永琉はまだ細かいことまでしっかり覚えている。
◇
「小父様にも『どうして愛琉ちゃんじゃないんだ』って言われたわ。あなたも同じことを言うなんて……そんなに愛琉がいいなら……」
控室にある大きな鏡を永琉は見た。そこに映っているのは白無垢の――。
(これは、どっち?)
永琉?
愛琉?
(合わせ鏡……)
永琉と愛琉、ではない。『愛琉』が鏡の前に立ち、『愛琉の代わり』が鏡の中にいるだけ。
「『愛琉』になってあげる」
永琉にとって愛琉になるのは簡単だ。だって永琉はずっと愛琉を見ていたから。羨ましかったから。気の利く話し方、可愛い笑い方を鏡の前で練習もしたから。
(愛琉になれば……もしかしたら……)
「は? 永琉?」
「それで我慢してよ、『一真さん』」
「待って、話を……」
「待たない」
だって愛琉は人の言葉など聞かない。話を聞け、なんて一番嫌がることだから。
「小母様と話してくるね」
「永琉!」
「愛琉でいいって。それじゃあ、あとでね……え?」
一真の制止の声を無視して扉を開けると、ジーンズにTシャツ姿の男性が立っていた。
(なに、この人……)
式場にこの服装は変だと、何かおかしいと男の顔を確認しようと思ったとき永琉の視界が陰った。
「……え?」
ガツンッと鈍くて重い衝撃が走り、永琉の視界が瞬いた。
(……な、に……? 頭が……痛い……の?)
「永琉!!」
(ちがう、わたしは…………)